南流山教室のメッセージ
千葉県民の日
2024.06.18
先週の話ですが、6/15(土)は千葉県民の日でした。千葉県のホームページによると
『「県民の日」は、「県民が、郷土を知り、ふるさとを愛する心をはぐくみ、共に次代に誇りうる、より豊かな千葉県を築くことを期する日」として、県の人口が500万人を突破したことを記念して、昭和59年に制定されました。
これは、明治6(1873)年6月15日に当時の木更津県、印旛県の両県が合併して千葉県が誕生したことに由来しています。』
だそうです。ふるさとを愛する心や、千葉県を誇る心は県民の皆さんにお任せするとして、今回は千葉県の郷土、それも成り立ちや由来について、少し書いていこうかと思います。
千葉県は、外房、内房と海と接しているため、縄文時代から海の幸に恵まれていたようです。なんと発見された貝塚の数は、千葉県が全国一位だそうです(千葉県HPより)
房総という漢字は、共に「ふさ」と読みます。「房」の方には、「房をなして実る果実」という意味があるようです。「総」のほうは、麻のことだそうで、平安時代、房総地方で麻を植えたところ、よく育ったために、「総」の字が国名についた、という文献が残っているそうです。
「千葉」という字も、多くの葉が生い茂ったことを意味する漢字です。とにかく、千葉県といえば海も野も自然の恵み豊かな土地、というのが共通認識だったようです。
その後、武士の世になると、様々な武将たちが千葉県を拠点とします。千葉氏は、桓武天皇の裔、つまり平氏の流れをくむ一族でした。
室町時代には、足利一門の足利義明が、小弓公方と自称し、千葉市辺り(現在も千葉市おゆみ野という地名が残っています)に君臨していました。他にも海軍を持つ里見氏や、上総武田氏(真里谷氏)等、様々な勢力が千葉を拠点としていました。江戸時代には、江戸に近かったことから、幕府直轄領なども多くありました。
明治初めには、転封されてきたものも含め、25もの藩が千葉にあったそうです。
その後の明治4年、廃藩置県により、茨城に移転した大網藩を除いた24の藩がそのまま24の県となりました。さらに、旧幕府直轄領、旧旗本領であった葛飾県などを加え、千葉には26の県が誕生しました。同明治4年の11月に統廃合によって、千葉には印旛県、木更津県、新治県となりました。ちなみに、印旛県の県庁所在地は葛飾郡加に置かれました。現在の流山市加ですね!(流山教室は流山市加にあります)
という紆余曲折を経て、上記のように、明治6年6月15日に当時の木更津県、印旛県の両県が合併して千葉県が誕生したのです。
そして、明治8年に、現在の千葉、茨城にまたがる新治県が廃止され、一部が千葉県となったところで、千葉県はほぼ現在の(つまりチーバくんの)形に至る、というわけです。
千葉県在住の方でも、上記のような千葉の変遷は意外と知らなかった方も多いのではないでしょうか?
残念ながら、県外に働きに出ている方々は休日とはなりませんし、今年は土曜日であったために、影の薄かった感のある千葉県民の日ですが、郷土を知るきっかけになればと思います。