横浜六浦教室のメッセージ
刀伊の入寇
2024.11.26
刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁(かんにん)3年(1019年)3月末から4月にかけて、
女真(じょしん)の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、
さらに九州に侵攻したのです。刀伊(とい)とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)である
東夷(とうい)を指す「toi」に、日本の文字を当てたとされています。
寛仁3年(1019年)3月28日、対馬に賊船が襲来しました。賊らは18人を殺戮し、
陵辱をほしいままにし、次いで壱岐島を襲い149人を殺し、さらに筑前国・怡土郡(いとぐん)
(現・福岡県糸島市)の沿岸を荒らしました。住民にとっては悪鬼の襲来でした。
賊の船は異様でした。長さ15メートル前後、櫂(かい)を30~40も並べた細身の快速船で
総数は50隻ほど、一隻に50~60人の男たちが乗り組み、総勢はおよそ3,000人。
大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家は、相次ぐ急報を受けて、直ちに防衛態勢を取りました。
この賊たちは、高麗人が北方の夷狄とする刀伊族(女真族)でした。
4月8日、賊は能古島(のこのしま)に現れました。能古島を前進基地にして
博多をうかがう気配です。藤原隆家は大蔵種材(おおくらのたねき)、
平為賢(たいらのためかた)らを大将格に配し、博多の警固所(けごしょ)に派遣しました。
4月9日、敵は能古島を発して、警固所を襲撃、激闘となります。日本側は防衛陣地から
鏑矢(かぶらや)を放ちます。この鏑矢の音におじけづいた敵は能古島へ引きました。
この後、4月12日・13日と糸島半島で激闘となりましたが、賊は北方海上に姿を消し
二度と現れませんでした。日本側の被害は殺されたもの365人、
捕らえられたもの1,289人とされます。戦闘期間はたったの7日間でした。