2024.02.27
紫式部が後宮(こうきゅう)にお仕えするようになった経緯について考えてみましょう。
※後宮とは、皇后・中宮・女御が住まわれ、女官が奉仕した禁中の奥御殿のこと
紫式部は、一条天皇の御乳母という関係か、または「紫式部日記」に
「中務の宮わたりの御ことを、御心に入れて、そなたの心よせある人とおぼして
かたらはせ給ふも、まことに心のうちは、思ひゐたることおほかり。」とあるように、
中務卿具平親王との姻戚関係か、あるいは「源氏物語」の作者という名声かによって、
お召しを受けたものではないでしょうか。そのお召しはかれらにとって名誉であり、
喜びであったに相違ありません。紫式部もその宮仕えの喜びを、その日記の中に
「さりげなくもてかくさせ給へり。御有様などの、いとさらなることなれど、
憂き世のなぐさめには、かかる御前をこそたづねまゐるべかりけれと、
うつし心をばひきたがへ、たとしへなく、よろづ忘らるるも、かつはあやし」
と告白しているのです。
※中務の宮:村上天皇第七皇子の具平親王(ともひらしんのう)
現代語訳:(道長様は)中務の宮家との件についても、実に熱心なのです。
そして、この私が宮家と特に関係が深いことを知られているので、あれこれと相談を
かけてこられるのです。私としては、そのような相談をされてはおりますが、
実のところ、さまざまに思い込んでしまうことが多くありました。『若宮誕生』
現代語訳:何気ないふうにそっと隠しなさっていらっしゃるご様子などが、
本当に今更言うまでもないことであるけれども、つらいこの世の慰めとしては、
このようなお方こそをお探ししてお仕え申し上げるべきであったのだと、
ふだんの心とは打って変わって、たとえようもなく全て(の憂鬱な気持ち)が
忘れられるのも、一方では不思議なことなのです。『秋のけはひ』
参考文献:「平安朝の生活と文学」ちくま学芸文庫 池田亀鑑
「紫式部日記」岩波文庫 池田亀鑑/秋山虔