2024.10.28
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、
よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、
行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、
をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。
そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。
(※『紫式部日記』(山本淳子編、角川ソフィア文庫、ビギナーズ・クラシックス 日本の古典より)
【現代語訳】
それにつけても清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね。
あそこまで利巧ぶって、漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度ときたら、
よく見ればまだまだ足りない点だらけです。彼女のように、人との違い、つまり個性ばかりに
奔りたがる人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただ「変」というだけになってしまうものです。
例えば風流という点ですと、それを気取り切った人は、人と違っていようとするあまり、
寒々しくて風流とはほど遠いような折にまでも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を
見逃さず拾い集めます。でもそうこうするうち自然に現実とのギャップが広がって、
傍目からは「そんなはずはない」「上っ面だけの嘘」と見えるものになるでしょう。
その「上っ面だけの嘘」になってしまった人の成れの果て、はどうして良いものでございましょう。