2024.05.20
藤原道隆の嫡男である伊周(これちか)は、故太政大臣藤原為光の娘三の君に通っていました。
長徳2年(996年)頃、花山(かざん)法皇が、三の君と同じ屋敷に住む四の君
(かつて寵愛した女御藤原忯子(よしこ)の妹)に通いだしました。
伊周はそれを自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談します。
藤原隆家は長徳2年1月16日(996年2月7日)、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、
花山法皇の衣の袖を弓で射抜いてしまいました。
女性がらみの事件だけに、花山法皇は体裁を考えて不問に付そうとしましたが、
いつしか世間の噂になってしまいます。かつてから伊周をライバル視していた
右大臣・藤原道長は、これを問題にして、伊周を大宰権師(だざいのごんのそつ)に、
隆家を出雲権守(いずものごんのかみ)に左遷という処分に持ち込みました。
二人は、一条天皇の女御となっている中宮定子の袖にすがって赦免を得ようとしますが、
果たすことはできず、そのため定子は出家してしまいます。
その年の暮れには、定子は第一子の脩子(しゅうし)内親王を出産します。
その後、一条天皇によって再び宮中に迎えられました。しかし、出家後の后の入内は
異例中の異例であり、藤原実資(さねすけ)は「小右記」に「天下不甘心」と記しています。