2024.03.11
寛和元年(985年)7月18日、花山天皇(第65代天皇)が寵愛していた
女御の藤原忯子(ふじわらのよしこ/しし)が十七歳で死去しました。
悲嘆に暮れた花山天皇は出家を考えるようになりました。
蔵人として仕えていた藤原道兼(藤原兼家の三男)は、自身も出家すると
天皇を唆し、花山天皇はついに出家を決断しました。
寛和ニ年(986年)6月23日、花山天皇はひそかに清涼殿(=天皇の御殿)を出て、
京都東山の元慶寺(がんぎょうじ/がんけいじ)に入り、出家入道します。
しかし、出家を誘った道兼はそのまま姿を消してしまいます。
藤原兼家は、子の道隆や道綱に命じて三種の神器(※八咫鏡(やたのかがみ)、
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))を
皇太子の居所に移し、内裏諸門を封鎖しました。
花山天皇の出家により、皇太子の懐仁(やすひと)親王(円融天皇の第一子)が
即位して一条天皇となりました。数え年で七歳だったので、外祖父の藤原兼家が
摂政として政治の主導権を握ることになりました。この出家騒動は、懐仁親王を
いち早く皇位につけるために、藤原兼家が仕組んだ謀略とも言われています。