2024.05.22
今は昔、藤原為時(ふじわらのためとき)という人がいました。
一条天皇の御代に、式部丞(しきぶのじょう・式部省の三等官)を勤め上げた
功労により、国司になりたいと願い出ましたが、除目(じもく・任官の儀)のときに
国司が欠員になっている国がない、というので、任じられませんでした。
そこでこれを嘆き、翌年、除目の修正が行われた日、為時は博士ではありませんが、
たいそう文才のある人物であったので、上申書を内侍(ないじ・上奏、伝宣を司る
内侍所の女官)を介して天皇に奉りました。その中に、次の句がありました。
(苦学寒夜 紅涙霑襟 除目後朝 蒼天在眼)
苦学の寒夜、紅涙襟を霑(うるお)す
除目の後朝、蒼天眼(そうてんまなこ)に在り
「懸命に勉強したのに希望が叶わず、血の涙が襟をぬらしております。
もし、除目の変更があれば、蒼天(一条天皇)に更なる忠勤を誓うでしょう」
内侍はこれを天皇のお目にかけようとしましたが、天皇はそのとき
ご寝所にお入りになっていて、御覧になりませんでした。
ところで、御堂(みどう・藤原道長)は当時、関白でいらっしゃったので、
除目の修正を行われるため、参内なさって、為時のことを奏上なされましたが、
天皇は為時の上申書を御覧になっておられなかったので、何のご返答もなされませんでした。
そこで関白殿が、女房にお尋ねになると、女房が、
「じつは、為時の上申書をお目にかけようとしましたとき、主上はすでにお休みに
なっておられ、御覧になりませんでした」と、お答えしました。
そこで、その上申書を探し出して、関白殿が天皇にお見せなさいましたところ、
この句がありました。関白殿は、この句の素晴らしさに感心なさって、
ご自分の乳母子であった藤原国盛(ふじわらのくにもり)という人がなるはずであった
越前守をやめさせて、にわかにこの為時をそれに任じられました。
996年(長徳2年)正月28日、越前守に叙任されて越前国へ下向した藤原為時。
越前には娘の紫式部も同行していたのだといいます。
『今昔物語』には、一条天皇は為時の漢詩の才に深く感動したのだと書かれています。